明日で終わりの展覧会。
知人の評判が良いので駆け込みで行ってきた。
行ってみたらなんと今日は「国際博物館の日」(なんのことかよくわからない)につき入場無料。ラッキー!
絵画というのは物質なのである。
何が描かれているかということ以前に、その物質性と身体性を感じることが
見る快楽につながるのだなあと実感。
あまりにも多作で大作が多くでびっくり。
好みとしては90年代から00年代辺りか。
中村一美展
国立新美術館
2014年3月19日(水)~5月19日(月)
http://www.nact.jp/exhibition_special/2013/NAKAMURA_Kazumi/index.html
ジェンダー・表象・文化の政治学
トリン・T・ミンハ
小林富久子訳
1996年みすず書房
p164-165
今日必要と思われるのは、観客の一人一人がもつユニークで(なおかつ)社会的な自己に訴えかけ、そうした自己の意義をそれぞれの個人的経験や背景に応じて知覚させ、その過程でどの観客も政治的に条件づけられており、かつ、他の多くの社会的な自己と結びついてもいるということを感じさせる作品である。
(中略)
人が作品から、あるいは、作品に向かうことから、感じとる社会的挑戦を受けとめるには、映画のテクストを成り立たせているできごとを読み、かつ読みなおすことで、自身が意味の創出に参加する積極的な観客としての役割の担い手であるとの自覚をもつ必要がある。
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映画についての文章だが、映画にのみあてはまるものではない。
コンタクトホーフはまさにこの条件にあてはまり、観客とともに成立する作品であったことよ、と思いながら読んだ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140419-00000014-jij_afp-int
記録し忘れるところだった。
貴重な作家を失った。
大変な影響力を持った作品を書いたと思う。百年の孤独は永久保存版。
しかし先日読んだ「わが悲しき娼婦たちの思い出」は
川端の「眠れる美女」とは違いロマンチックでほほえましくすらあった。
晩年メキシコに住んでいたとは。
2009年に彼女が亡くなってから初めて見るヴッパタール舞踊団の舞台である。
09年以降に見たものといえばヴェンダースのドキュメンタリー「踊り続けるいのち」だが
3Dが見辛かったことくらいしか記憶に残っていない。
「コンタクト・ホーフ」は以前来日した時も持ってきた作品のようだが初めて見る作品。
初日のせいか、補助席も沢山出ており、生前の舞台に比べ大盛況で驚いた。
上演時間は休憩も含め3時間と長かったが長さは特に感じなかった。
大きな盛り上がりはなく、淡々とシークエンスが繋がっていく。
しかし
(あの鴨の映像を流すシーンはどんな意味だったのだろう?とか)
(出演者が同時にそれぞれの母国語で自分の恋愛体験について話す音声がとても心地よかったこととか)
気になったシーンはいくつもある。
以前どこかでバウシュについて読んだ本にも出ていたと思うが(題名失念)
この作品に於いてはそれらのシークエンスが最後に辿り着くシーンが衝撃的で、
男性達の愛撫に耐え切れず女性が崩れ落ち、さらに新しい女性が現れることにより、
飽きられた玩具のように女性が置き去りにされるシーンは、
これが動物としての人間の正体だと思わざるを得ない。
恐らくそれぞれの鑑賞者が実感として感じるはずだ。
さらに、そのようなスケープゴートが生物としての弱さからくるのではなく
社会的に創り出してしまう人間の正体を見たというべきか。
ただ、この作品からというよりピナ・バウシュの作品の中には
そんな人間に対しても多角的な見方や愛情表現も示されるのだが。
近所の八百屋に行った。
レジで並んでいたら隣のレジで牛乳1パックだけ持って並んでいた女性の前に
50代の女性が横入りした。
レジの機械に至る前が通路のため、ちょっと間隔が空けて並ぶことになっている場所だったので
勘違いしているのかと思って見ていた。
牛乳1パックの女性は暫く茫然とした顔をしていたが
何も言わずに、さらに横のレジに並びなおしていた。
気の毒なことである。
と思いきや、会計を終えた私が袋詰めの場所に並んでいたところ
先ほど横入りした50代女性が店を出たので入れ替わりに入ったところ
買い物かごが置きっぱなしである。
ここに至って2回共確信犯だと気が付いた。
「ババア!待ちやがれ!」と言いたいところをぐっとこらえて、
ババアの買い物籠を所定の場所に移動する。
こんなことでこんなに腹を立ててバカみたいだぜ私、と思うが…。
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