昨年は幼虫の数に応じ鉢を増やしすぎたため、ベランダには既にパセリが7株ある。
今年は絶対増やさないぞと決心する。
今月になりパセリが花を咲かせ、種から育てられるかしらと
楽しみにしていた矢先にキアゲハの幼虫が7頭孵化する。
この度知ったのだが幼虫たちは葉よりも花を好んだ。
ミツバチも来ていたのに花から花へと幼虫は食い尽くしていった。
2、3日前から1頭づつ旅に出ていったがもはや茎しか残っていない。
最後の2頭が残ったが、食べるものが枯渇し
人間は心を鬼にして見ていたが、なんとか旅立つことに決めたよう。
と思いきや気付いたらベランダには4頭の蛹候補が留まっていた。
一日は場所選び。昼から出ていき夕方には場所を決定する。
翌日は蛹ポーズを取り脱皮の準備のため同じ場所に幼虫のままとどまるのである。
脱皮準備の幼虫のポーズは手を合わせぎゅっと体を丸め、
まるでお祈りをしているよう。
友人と電話をしながらスコールを見る。
雷が鳴ってみるみるうちに空が真っ黒になり大粒の雨と風が吹き付ける。
過ぎてから近所の小川へ出かけて様子を見る。
やはり結構増水しており鴨などが流れていく。
川縁の歩道を歩きたいが川上でスコールが起こって急に増水すると怖いので
堤防の上から見ていると
川縁に猫が座って増水した川を見物している。
その後ろ数メートルのところに飼い主らしき男性がおり「帰るよ」などと声をかけている様子。
猫の気持ちがよくわかる。
同時期に開催していたキトラ古墳展も見てみたかったのだが、
入場まで100分待ち、作品まで30分待ちで断念。
建仁寺のほうは風神雷神図があるのにも関わらず、混み具合は普通だった。
栄西の書などが半分ほど占めているので地味なのか?
宗達ファンの私には嬉しいが、古墳に負けてちょっと複雑。
この展覧会の白眉は海北友松の作品だった。
海北友松はさまざまな作品があるがここで展示されていたのは
割に自由に描いている時代の作品と勝手に想像する。
私は龍より山水図や竹林七賢図のほうが良かった。
山水図はほとんど具象の面影を残さず。
何でしょう、このセンスの良さと墨の濃淡の美しさは!
後日再びキトラ古墳展にチャレンジしたがやはり断念。
常設展の光琳風神雷神図を見てキトラのカタログだけ買って帰る。
高松塚古墳ファンの私は、壁画が酷似していたので混同していたが
キトラ古墳は2年後にオープンするとのこと。
ならば後日直接奈良に見に行くことにする。
開山・栄西禅師 800年遠忌 特別展「栄西と建仁寺」
東京国立博物館 平成館 特別展示室
2014年3月25日(火) ~ 2014年5月18日(日)
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1632#top
明日で終わりの展覧会。
知人の評判が良いので駆け込みで行ってきた。
行ってみたらなんと今日は「国際博物館の日」(なんのことかよくわからない)につき入場無料。ラッキー!
絵画というのは物質なのである。
何が描かれているかということ以前に、その物質性と身体性を感じることが
見る快楽につながるのだなあと実感。
あまりにも多作で大作が多くでびっくり。
好みとしては90年代から00年代辺りか。
中村一美展
国立新美術館
2014年3月19日(水)~5月19日(月)
http://www.nact.jp/exhibition_special/2013/NAKAMURA_Kazumi/index.html
ジェンダー・表象・文化の政治学
トリン・T・ミンハ
小林富久子訳
1996年みすず書房
p164-165
今日必要と思われるのは、観客の一人一人がもつユニークで(なおかつ)社会的な自己に訴えかけ、そうした自己の意義をそれぞれの個人的経験や背景に応じて知覚させ、その過程でどの観客も政治的に条件づけられており、かつ、他の多くの社会的な自己と結びついてもいるということを感じさせる作品である。
(中略)
人が作品から、あるいは、作品に向かうことから、感じとる社会的挑戦を受けとめるには、映画のテクストを成り立たせているできごとを読み、かつ読みなおすことで、自身が意味の創出に参加する積極的な観客としての役割の担い手であるとの自覚をもつ必要がある。
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映画についての文章だが、映画にのみあてはまるものではない。
コンタクトホーフはまさにこの条件にあてはまり、観客とともに成立する作品であったことよ、と思いながら読んだ。
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