うららかな季節となったのでT2と夢の缶詰を開けることにする。
華やかな記念日となるよう女性を中心とした友人を集め、黄金週間に、江戸人の憧れの地、江ノ島に赴いたのだった。
T2と準備の相談をしたところ雨合羽は持参することになったが
「念のため45リットルのゴミ袋も持っていくよ~」とのことであった。
さて、当日のことだが、他国の食べ物であることもあり多くは語らない。
私の記憶に焼きついている光景としては
T2が透明ゴミ袋の内部の、大島弓子の綿の国星の中から出てきたかのような、かわいらしいサカナ模様の缶詰に、メス(缶きり)を入れた瞬間「ブシューーーー」という大音響(に思えた)と共に
缶内部の灰色の汁が45度の角度で放射され「キャー!!!!」「くさい!」「くさい!」「くさい!」「くさい!」という叫び声が聞こえ、雨合羽と手袋をしていたにも関わらずT2が
「きゃーーー!!!!袖から入ったああああ!!!こっころすーー!」と必死の形相で覆い被さるように缶を空けたこと(エライ)。
ブクブクと発酵を続ける缶詰を中心に据え、グループ全体に「どーすんだよ、これ」的ないやーなムードが流れたこと。そのなかで「じゃあ私、お先にいっただっきまーす!」と一番初めに箸を伸ばしたIが「うん、塩辛みたいでおいしい!」と言ったこと。
各自が持参したお弁当達が予想より沢山に残ってしまったこと。
(発酵は腹に入っても続き、げっぷが出て、しかも食べてしばらく疲労するのでそのせいかと思われる)
蛇足だが隣人Yが缶詰サンドを持って余所見をしたところ上空から監視していた鳶に襲われていたこと。
くらいであろうか。
個人的には、缶詰の国の人はきっと私より強靭な肉体を持っているのではないかと考えました。
(食べた後疲れるから)
彼女の「正しい」名前とは何か
岡真理
2000年 青土社 P194 より
逆に言えば、私たちは、自らの発話がいかなるポジションから語られるかを、発話に先だってあらかじめ自分で規定することは原理的に不可能だということになる。なぜなら、自分の位置が他者との関係において決定されるとするなら、自分が何者として語るかを自ら知るためには、私たちは、他者との関係性の全てを勘案しなくてはならない。しかし、キャンベルやデイリーの事例が示しているのは、私たちが何者であるかを決定するのは、私たちが忘却している他者の存在であり、言いかえれば、私たちにそのような特権的な忘却を可能ならしめているような場―あらかじめ忘却された場―に私たちが立っているという事実なのであるから。そして、私たちが誰を忘却しているか―それはまた私たちがいかなる者であるか、ということでもある―は、私たちが言葉を発するという、まさにその行為によってはじめて、明らかになるのだ。何も語られなければ、そこにおいて、何が忘却されているかも分かりはしない。だからこそ、私たちは語らねばならない。私たちが誰を忘却しているかを知るために。私たちがそのような忘却を生きることが可能な特権的立場にあったことを知るために。そして、そのような忘却を私たちに可能にしていた歴史的、社会的、物質的、さまざまな条件を明らかにし、その解体に取り組むために。
~中略~
自分がこの世界でいかなる位置を占めているか、そして自分の忘却している自己の位置を知るために。私たちが忘却している他者からの批判に、私たちが突然さらされ,私たちのアイデンテイテイを脱臼させることによって。
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ゴウーゴウー子供の日です。
今後ともよろしくおねがいします。
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