仕事を辞めて以降はじめて周囲を見渡しながらじっくり生活しているのである。
秋になり、隣家の金木犀の香が部屋の中まで入りこんで
開け放しておくと身の回りの空気が金木犀になることに気付いたり
本日は窓の外からガラガラガラと音がするので窓を開けてみたところ
街路樹のばかでかい葉が落ちていく音であった。これって木の生理だ。
もしかするとこれほど樹木に接近して住んだのは初めてのことかも知れない。
多様なるものの詩学序説
エドゥアール・グリッサン
2007 以文社 小野正嗣訳
p29
こうしたことすべてに私は浸透されており、だからこそ、私はよく言うのです。今日の作家、現代の作家は、ひとつの言語しか知らないとしても世界のあらゆる言語を前にして書いているのだから、単一言語的ではないのだ、と。
p140
私たちはいま、全体性―世界のなかで、ひとつ根のアイデンティティの束縛や閉鎖性から脱しようとしています。私たちはそういうことを考えるようになっています。歴史を読むとき、世界の現状を読むとき、それが至るところに現れている。そしてこれは誰もがあえて問おうとはしないし、耳にしたがらない問題なのです。こんな問いを発してしまえば、自分自身のアイデンティティを傷つけ、ばらばらにしてしまう気がするからです。だから誰もクレオール化を「欲」しないのです。自分のひとつ根のアイデンティティのためには死ぬことができても、クレオール化のためには死ぬことができないからです。クレオール化は人が死ぬことを要求しません(たとえセガレンが、世界の「多様なるものの減衰に抗して戦い、格闘し、「たぶん美しく死な」なければならない、と求めたとしても」。誰もクレオール化のために自己を犠牲にすることはできないのに、アイデンティティのためだったら、自分のひとつ根のアイデンティティのためだったら、自分を犠牲にできるのです。ひとつ根のアイデンティティのためには殺人者にだって人殺にだって死刑執行人にだってなりかねない。ひとつ根のアイデンティティのためになら戦争することだってできるのです。私は自分の想像的なもののなかで、私の存在は関係性からできていると思い描くようになれば、私は自分の存在から切り離され、アイデンティティのために衰弱していき、私は空気中にかき消えてしまうことになるのでしょうか?そんなことはありません。この発想の転換を行わないかぎり、ボスニアはこのままでしょう。クレオール化の彼方とは結局、アイデンティティのない状態でしょう。しかし土地があります。それが私たちを維持してくれるのです。
p194
あらゆる文学を、とりわけ西洋的世界とヨーロッパ的世界において、暗黙のうちに支えてきた考えとは、ある文化に固有の文学によって表現された諸価値は、また国民(ナシオン)がある場合には国民文学によって表現された諸価値は、要するにあらゆる文学の諸価値は、これらの価値が誰に対しても通用する普遍的な価値になればよいのにというひそかな希望によって支えられているというものです。これは場所というものの間違った使い方だと私には思われます。場所は避けて通ることのできないものですが、価値という観点からすると運び出すことはできません。個別的な価値を一般化することはできません。しかし普遍的な価値を「抽出する」ためではなく、たえず接触しあい、重なりあう、異なるさまざまな価値からなるリゾーム、場、織物、横糸を作り上げるために、個別的な価値を量化することはできます。これは自分自身の価値がいずれ普遍的価値になると考えるのとは別のことです。自分自身の価値が世界の全体性の諸価値と交錯していると考えるのは、自分の価値を世界全体に通用させようという企てよりも、はるかに偉大で、高貴で、寛容な企てだと思います。私にとっての古典主義とはひとつの個別的な価値が普遍的に通用する価値になりたいと望み、そう試みるときに生じるものなのです。普遍的なものという考えを私たちは捨て去らなければならないと思います。普遍的なものは罠です。まやかしの夢です。全体性―世界を全体性として、つまり個別的な諸価値から聖別化された価値としてではなく、実現された量として、思い描くべきなのです。これは根本的なことであり、私たちの気づかないうちに、現代の世界文学のありようと大きく変えているのです。
居住地の家屋の廃材と絹の綿、ガラスを使って作られた作品。
人の手、素材としての木(下記のウェブにも書いてあるが)両方に対しての寄り添う態度、
そして繊細な見せ方のセンスに好感を持つ。
~10月25日(日)
トキ・アートスペース
http://homepage2.nifty.com/tokiart/091012.html
今福龍太
2009年 東京外国語大学出版社 p288
『全-世界論』の原題はTraité du Tout-Monde。グリッサンの詩学にあって、このモンドmondeという言葉は、ほとんど唯一と言ってもいい至高の語彙です。モンドというのは「世界」という意味のほかに、「集合としての人々、群集としての人々」という意味があります。トゥール・モンドTout le Mondeといえば「すべての人」「ここにいるみんな」という意味。フランスには「ル・モンド」という代表的な新聞がありますが、「世界」という言葉でふつうわれわれが思い浮かべるのは地図とか地球儀、オリンピックやワールドカップといった世界を可視化して固定化する装置を通じて作り出される世界イメージのことです。しかしグリッサンにとってのモンドとは、予測不可能で定義しえない運動のようなもの、群集のあらゆる声のざわめきのようなもっと混沌とした生々しいものです。彼に倣って言えば「それは教条主義的な多様主義とは無縁の、固定化された枠組みのないあるがままに放置された多様性で、真に流動的でダイナミックな存在」、ということになります。
2月の個展以降の作品もありますので
お近くに立寄られた際にでも覗いていただければうれしいです。
なお終了日は不明
(すみません。出かける前には下記サイトをチェックして現在の展示をご確認ください)。
http://www.sukiwa.net/
こちらでは11月7日からも、グループ展が予定されています。
詳細はまた後日。
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