多様なるものの詩学序説
エドゥアール・グリッサン
2007 以文社 小野正嗣訳
p29
こうしたことすべてに私は浸透されており、だからこそ、私はよく言うのです。今日の作家、現代の作家は、ひとつの言語しか知らないとしても世界のあらゆる言語を前にして書いているのだから、単一言語的ではないのだ、と。
p140
私たちはいま、全体性―世界のなかで、ひとつ根のアイデンティティの束縛や閉鎖性から脱しようとしています。私たちはそういうことを考えるようになっています。歴史を読むとき、世界の現状を読むとき、それが至るところに現れている。そしてこれは誰もがあえて問おうとはしないし、耳にしたがらない問題なのです。こんな問いを発してしまえば、自分自身のアイデンティティを傷つけ、ばらばらにしてしまう気がするからです。だから誰もクレオール化を「欲」しないのです。自分のひとつ根のアイデンティティのためには死ぬことができても、クレオール化のためには死ぬことができないからです。クレオール化は人が死ぬことを要求しません(たとえセガレンが、世界の「多様なるものの減衰に抗して戦い、格闘し、「たぶん美しく死な」なければならない、と求めたとしても」。誰もクレオール化のために自己を犠牲にすることはできないのに、アイデンティティのためだったら、自分のひとつ根のアイデンティティのためだったら、自分を犠牲にできるのです。ひとつ根のアイデンティティのためには殺人者にだって人殺にだって死刑執行人にだってなりかねない。ひとつ根のアイデンティティのためになら戦争することだってできるのです。私は自分の想像的なもののなかで、私の存在は関係性からできていると思い描くようになれば、私は自分の存在から切り離され、アイデンティティのために衰弱していき、私は空気中にかき消えてしまうことになるのでしょうか?そんなことはありません。この発想の転換を行わないかぎり、ボスニアはこのままでしょう。クレオール化の彼方とは結局、アイデンティティのない状態でしょう。しかし土地があります。それが私たちを維持してくれるのです。
p194
あらゆる文学を、とりわけ西洋的世界とヨーロッパ的世界において、暗黙のうちに支えてきた考えとは、ある文化に固有の文学によって表現された諸価値は、また国民(ナシオン)がある場合には国民文学によって表現された諸価値は、要するにあらゆる文学の諸価値は、これらの価値が誰に対しても通用する普遍的な価値になればよいのにというひそかな希望によって支えられているというものです。これは場所というものの間違った使い方だと私には思われます。場所は避けて通ることのできないものですが、価値という観点からすると運び出すことはできません。個別的な価値を一般化することはできません。しかし普遍的な価値を「抽出する」ためではなく、たえず接触しあい、重なりあう、異なるさまざまな価値からなるリゾーム、場、織物、横糸を作り上げるために、個別的な価値を量化することはできます。これは自分自身の価値がいずれ普遍的価値になると考えるのとは別のことです。自分自身の価値が世界の全体性の諸価値と交錯していると考えるのは、自分の価値を世界全体に通用させようという企てよりも、はるかに偉大で、高貴で、寛容な企てだと思います。私にとっての古典主義とはひとつの個別的な価値が普遍的に通用する価値になりたいと望み、そう試みるときに生じるものなのです。普遍的なものという考えを私たちは捨て去らなければならないと思います。普遍的なものは罠です。まやかしの夢です。全体性―世界を全体性として、つまり個別的な諸価値から聖別化された価値としてではなく、実現された量として、思い描くべきなのです。これは根本的なことであり、私たちの気づかないうちに、現代の世界文学のありようと大きく変えているのです。
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