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2009年5月5日に引越しました
Posted by tanakaakiko - 2015.01.09,Fri
「イメージ、それでもなお
-アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真-」

ジョルジュ・ディディ=ユベルマン
橋本一径訳
2006
平凡社

p229-230クラカウアーの言葉より

映画のスクリーンは磨き上げられたアテナの盾だ。
--中略--
ペルセウスの最大の功績とはおそらく、メドゥーサの首を落としたことではなく、恐怖を克服して、盾の上の反射像を見たことである。
この功績こそが怪物の首を斬り落とすことを可能にしたのではなかっただろうか。


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Posted by tanakaakiko - 2014.04.30,Wed
月が赤く満ちる時
ジェンダー・表象・文化の政治学
 
トリン・T・ミンハ
小林富久子訳
1996年みすず書房
 
p164-165

今日必要と思われるのは、観客の一人一人がもつユニークで(なおかつ)社会的な自己に訴えかけ、そうした自己の意義をそれぞれの個人的経験や背景に応じて知覚させ、その過程でどの観客も政治的に条件づけられており、かつ、他の多くの社会的な自己と結びついてもいるということを感じさせる作品である。
(中略)
人が作品から、あるいは、作品に向かうことから、感じとる社会的挑戦を受けとめるには、映画のテクストを成り立たせているできごとを読み、かつ読みなおすことで、自身が意味の創出に参加する積極的な観客としての役割の担い手であるとの自覚をもつ必要がある。

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映画についての文章だが、映画にのみあてはまるものではない。
コンタクトホーフはまさにこの条件にあてはまり、観客とともに成立する作品であったことよ、と思いながら読んだ。
Posted by tanakaakiko - 2009.10.16,Fri

多様なるものの詩学序説
エドゥアール・グリッサン
2007 以文社 小野正嗣訳

p29
こうしたことすべてに私は浸透されており、だからこそ、私はよく言うのです。今日の作家、現代の作家は、ひとつの言語しか知らないとしても世界のあらゆる言語を前にして書いているのだから、単一言語的ではないのだ、と。

p140
私たちはいま、全体性―世界のなかで、ひとつ根のアイデンティティの束縛や閉鎖性から脱しようとしています。私たちはそういうことを考えるようになっています。歴史を読むとき、世界の現状を読むとき、それが至るところに現れている。そしてこれは誰もがあえて問おうとはしないし、耳にしたがらない問題なのです。こんな問いを発してしまえば、自分自身のアイデンティティを傷つけ、ばらばらにしてしまう気がするからです。だから誰もクレオール化を「欲」しないのです。自分のひとつ根のアイデンティティのためには死ぬことができても、クレオール化のためには死ぬことができないからです。クレオール化は人が死ぬことを要求しません(たとえセガレンが、世界の「多様なるものの減衰に抗して戦い、格闘し、「たぶん美しく死な」なければならない、と求めたとしても」。誰もクレオール化のために自己を犠牲にすることはできないのに、アイデンティティのためだったら、自分のひとつ根のアイデンティティのためだったら、自分を犠牲にできるのです。ひとつ根のアイデンティティのためには殺人者にだって人殺にだって死刑執行人にだってなりかねない。ひとつ根のアイデンティティのためになら戦争することだってできるのです。私は自分の想像的なもののなかで、私の存在は関係性からできていると思い描くようになれば、私は自分の存在から切り離され、アイデンティティのために衰弱していき、私は空気中にかき消えてしまうことになるのでしょうか?そんなことはありません。この発想の転換を行わないかぎり、ボスニアはこのままでしょう。クレオール化の彼方とは結局、アイデンティティのない状態でしょう。しかし土地があります。それが私たちを維持してくれるのです。

p194
あらゆる文学を、とりわけ西洋的世界とヨーロッパ的世界において、暗黙のうちに支えてきた考えとは、ある文化に固有の文学によって表現された諸価値は、また国民(ナシオン)がある場合には国民文学によって表現された諸価値は、要するにあらゆる文学の諸価値は、これらの価値が誰に対しても通用する普遍的な価値になればよいのにというひそかな希望によって支えられているというものです。これは場所というものの間違った使い方だと私には思われます。場所は避けて通ることのできないものですが、価値という観点からすると運び出すことはできません。個別的な価値を一般化することはできません。しかし普遍的な価値を「抽出する」ためではなく、たえず接触しあい、重なりあう、異なるさまざまな価値からなるリゾーム、場、織物、横糸を作り上げるために、個別的な価値を量化することはできます。これは自分自身の価値がいずれ普遍的価値になると考えるのとは別のことです。自分自身の価値が世界の全体性の諸価値と交錯していると考えるのは、自分の価値を世界全体に通用させようという企てよりも、はるかに偉大で、高貴で、寛容な企てだと思います。私にとっての古典主義とはひとつの個別的な価値が普遍的に通用する価値になりたいと望み、そう試みるときに生じるものなのです。普遍的なものという考えを私たちは捨て去らなければならないと思います。普遍的なものは罠です。まやかしの夢です。全体性―世界を全体性として、つまり個別的な諸価値から聖別化された価値としてではなく、実現された量として、思い描くべきなのです。これは根本的なことであり、私たちの気づかないうちに、現代の世界文学のありようと大きく変えているのです。

Posted by tanakaakiko - 2009.10.02,Fri
身体としての書物
今福龍太
2009年 東京外国語大学出版社 p288

『全-世界論』の原題はTraité du Tout-Monde。グリッサンの詩学にあって、このモンドmondeという言葉は、ほとんど唯一と言ってもいい至高の語彙です。モンドというのは「世界」という意味のほかに、「集合としての人々、群集としての人々」という意味があります。トゥール・モンドTout le Mondeといえば「すべての人」「ここにいるみんな」という意味。フランスには「ル・モンド」という代表的な新聞がありますが、「世界」という言葉でふつうわれわれが思い浮かべるのは地図とか地球儀、オリンピックやワールドカップといった世界を可視化して固定化する装置を通じて作り出される世界イメージのことです。しかしグリッサンにとってのモンドとは、予測不可能で定義しえない運動のようなもの、群集のあらゆる声のざわめきのようなもっと混沌とした生々しいものです。彼に倣って言えば「それは教条主義的な多様主義とは無縁の、固定化された枠組みのないあるがままに放置された多様性で、真に流動的でダイナミックな存在」、ということになります。
Posted by tanakaakiko - 2009.06.18,Thu

スピヴァク、日本で語る
G.C.スピヴァク
2009年 みすず書房 p26より

 幽閉から抜け出す機会を与えてほしい、そう彼女たちは言うのです、(幽閉というアイデンティティ・ポリティクスを賞賛するだけではなくて)囚われているとはどういうことなのかについて自分の見解を持ちたいから、と。
想像力の中では彼女たちはなるほどすでにそのことを果たしています。にもかかわらず彼女たちが慣れっこになっていた幽閉がいったいどんなものだったかを知れば、閉じこめられていなかった者たちが衝撃を受けるかもしれないことを彼女たちは知っています。彼女たちの声は理論を動かす行為媒体になりたいという訴えであると同時に、体験だけにもとづく判断は自己免疫的になってしまう、想像力が作り出すことのできる抗体にたいして内部から免疫を作ってしまう危険をはらむという自覚でもあるのです。
 私たちが今グローバルに展開する巧妙な資本主義の内側から他の人びとを助けたいと思うのなら、彼女たちの洗練が私たちには必要です。
 

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