一見普通の家具と思って近寄ると、
家具としては使用不能なオブジェであった。
ギャラリストに聞いたところ鉄の作家とのこと。
工業製品であれば左右対称のものであるはずのものが
よく見ると微妙にいびつな形をしているところが
物体に対するいとしさを喚起させる。
~9月27日(日)
トキ・アートスペース
http://homepage2.nifty.com/tokiart/090914.html
最近展覧会のレビューを全く書いていないのは
気力がなかったせいなのだが、書かないでいるとどんどん忘れるので
やはり残しておくことにする。
実は越後には今年2回も行ってしまった。
計4日弱かけて7~80点は見たことになる。
このトリエンナーレは全てで300点以上あるのでこれでも1/3も見ていない。
数が多く、コンセプトもばらばらなので多くの作品は記憶に残らないが、
逆に有名無名を問わず、残る者は残るという、ある意味公平な展覧会ともいえる。
残る者の特徴は、土地や展示会場を使ってどれだけ相乗効果を発揮できているか、
この1点であると思う。
3年前に見たときはクリスチャン・ボルタンスキー+ジャン・カルマンが圧倒的にすごいと思った。
今回も圧倒的だったが
加え、直感的に書き出すと以下の美術家が記憶に残った。
ジェニー・ホルツァー
マリーナ・アブラモヴィッチ
塩田千春
馬文
山田健二
マーリア・ヴィルッカラ
ロビン・バッケン
スラシ・クソンウォン
スラシ・クソンウォン(タイ)の作品は高原の斜面に設置された巨大なブランコなのだが
(説明を読むと『ラ・モンテ・ヤングの「コンポジション」をコンセプトに、
神社やサオチンチャ(タイの巨大鳥居)のような木製の門型に古典的な椅子を吊るした。』
とあるがブランコにしか見えない)
乗るとやけに楽しくなり、体が勝手に笑う。
子どもの頃はこんな風に笑っていたなあと思い出したが
これって体が記憶している共通言語の一つだろうか。
単純だがそういう仕掛けに引っかかってしまうのは私の問題か。
3年前にも田んぼの上に設置されたブランコに引っかかったものである。
逆にいつも発表しているような作品、どこに設置しても問題ないような作品は、
見劣りがするという特徴をもつ展覧会である。
O3氏が「タダ券もらったー」てことでドライブを兼ねて平塚市美術館に行く。
駐車場が満車で「山本直影で満車?おかしいね」(ヒドイ)と言いながら、
カウンターで企画のチケットに換券したところ、
「いわさきちひろ展」と大きくかかれていてO3氏、驚愕。
実際はちひろメイン山本直影サブの企画展だった。
しかし美術館の本命は言うまでもなく山本直影である。
山本直影の作品は大きい。5メートルくらいはざらである。
これを日本画の画材で乗りこなすのだから
パワーとテクニックは十分すぎるほどある。
しかし、距離を取ると繊細な素材感が見えなくなっていき、
コンテンポラリーアート(あるいはアメリカンアート)の巨大さと
日本画の素材の持つナイーブさの同居の難しさを垣間見る。
しかしそれ以前に思うのは
この卓越したテクニック、そしてこの大きさは
本当に必要なものだろうか?
氏はちょー著名な美術評論家だが、じつは見たことも食べたこともない。
この年になって流石にまずかろうと本をちら見したら
マトモな評論家ではないですか。いかんいかん。
猛暑なのに、氏はその前のトークショーが長引き遅れているという。
精力的な方である。
20分ほどのちに到着した実物大は、
ホントに精力的なのか?と疑わしいほど曲がった仙人であった。
破顔すると木喰の仏そっくりである。
(が話をしていないときはほぼ無表情なので、黙っている間は異星人のようである)
一応、司会の方が冒頭に期待するテーマを述べたが
気にすることなくとうとうと流れていく。
常套手段は通じないらしい。
しかし伝えるべきこととサービスが話の中にセットされているので、ふしぎと常に面白い。
紹介者が「普通の人は死ぬと辞書一冊分が失われるといいますが氏は書庫1つ分です」
と仰っていたがそのとおり。
氏は終戦時に20歳だったそうだが、
長いこと生きているってのはすごいことだ。
日本民藝館での棟方志功展を見る。
ここは古い木造建築と織物など民芸常設展がまず素晴らしい。
企画展である棟方志功は版画は少なく、肉筆画と書が中心だが、この人の肉筆は勢いがありすぎてかなりヘン。
逆にいうと木版は非常に洗練されていてこのヘンさは出てこない。
木版を期待していた私ははじめちょっとがっかりしたが
過剰さや強引さや無駄の合間に触れることの出来るこの作家の息吹には、何かよい気分にさせられるものがある。
受け手が何か分からないうちに大らかな気分になって受け入れてしまうものが作品のなかにあるように感じられる。
橋本治「ひらがな日本美術史7」の棟方志功の項は、この感じが分かる象徴的に面白い部分があるのちょろりと紹介。
手元に資料がないので以下は引用ではなくニュアンスです。また(括弧)部分は私のコメントです。
-------------------------------------------
棟方志功は18歳の時、青森で給仕をしていたがゴッホの作品に触れ
「わだはゴッホになる」と例の有名な言葉とともに上京する。
しかしそこで出会った8歳年長の川上澄生の木版にまたも感激し、あっさり木版に転向。
初期作品は川上澄生に酷似している。
にもかかわらず棟方は自身の作品に、明らかに川上澄生に対するであろう、こんな文言を彫りこんでしまうのである。
「一すじみちを行く人 先を行く人じゃまです」
ずうずうしいことこの上ない。
しかし川上澄生は「人のじゃまにならぬよう生きていきたい」。(なんとなく宮沢賢治調)
うつくしい時代である。
(なお橋本治はこの後、棟方志功が川上澄生のどんな部分に響いたのか、
表現の内容についてを話を進めていくのですがそれは本文を読んでください)
-------------------------------------------
ちなみにその作品はこれ
http://image.blog.livedoor.jp/tomooji/imgs/5/f/5f31a9a7.jpg
ホント、美しい時代である。
読んでて大笑いしつつ、橋本治の客観的でありつつも肯定的な態度も含め、思わず感動しました。
そんなところが作品に現れるのだからたいしたものだ、と読んだ後ふりかえる。
6/14まで
http://www.mingeikan.or.jp/home.html
川上澄生展も開催中
6/7まで
http://www2.sogo-gogo.com/common/museum/archives/09/0509_kawakami/index.html
Powered by "Samurai Factory"