氏はちょー著名な美術評論家だが、じつは見たことも食べたこともない。
この年になって流石にまずかろうと本をちら見したら
マトモな評論家ではないですか。いかんいかん。
猛暑なのに、氏はその前のトークショーが長引き遅れているという。
精力的な方である。
20分ほどのちに到着した実物大は、
ホントに精力的なのか?と疑わしいほど曲がった仙人であった。
破顔すると木喰の仏そっくりである。
(が話をしていないときはほぼ無表情なので、黙っている間は異星人のようである)
一応、司会の方が冒頭に期待するテーマを述べたが
気にすることなくとうとうと流れていく。
常套手段は通じないらしい。
しかし伝えるべきこととサービスが話の中にセットされているので、ふしぎと常に面白い。
紹介者が「普通の人は死ぬと辞書一冊分が失われるといいますが氏は書庫1つ分です」
と仰っていたがそのとおり。
氏は終戦時に20歳だったそうだが、
長いこと生きているってのはすごいことだ。
日本民藝館での棟方志功展を見る。
ここは古い木造建築と織物など民芸常設展がまず素晴らしい。
企画展である棟方志功は版画は少なく、肉筆画と書が中心だが、この人の肉筆は勢いがありすぎてかなりヘン。
逆にいうと木版は非常に洗練されていてこのヘンさは出てこない。
木版を期待していた私ははじめちょっとがっかりしたが
過剰さや強引さや無駄の合間に触れることの出来るこの作家の息吹には、何かよい気分にさせられるものがある。
受け手が何か分からないうちに大らかな気分になって受け入れてしまうものが作品のなかにあるように感じられる。
橋本治「ひらがな日本美術史7」の棟方志功の項は、この感じが分かる象徴的に面白い部分があるのちょろりと紹介。
手元に資料がないので以下は引用ではなくニュアンスです。また(括弧)部分は私のコメントです。
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棟方志功は18歳の時、青森で給仕をしていたがゴッホの作品に触れ
「わだはゴッホになる」と例の有名な言葉とともに上京する。
しかしそこで出会った8歳年長の川上澄生の木版にまたも感激し、あっさり木版に転向。
初期作品は川上澄生に酷似している。
にもかかわらず棟方は自身の作品に、明らかに川上澄生に対するであろう、こんな文言を彫りこんでしまうのである。
「一すじみちを行く人 先を行く人じゃまです」
ずうずうしいことこの上ない。
しかし川上澄生は「人のじゃまにならぬよう生きていきたい」。(なんとなく宮沢賢治調)
うつくしい時代である。
(なお橋本治はこの後、棟方志功が川上澄生のどんな部分に響いたのか、
表現の内容についてを話を進めていくのですがそれは本文を読んでください)
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ちなみにその作品はこれ
http://image.blog.livedoor.jp/tomooji/imgs/5/f/5f31a9a7.jpg
ホント、美しい時代である。
読んでて大笑いしつつ、橋本治の客観的でありつつも肯定的な態度も含め、思わず感動しました。
そんなところが作品に現れるのだからたいしたものだ、と読んだ後ふりかえる。
6/14まで
http://www.mingeikan.or.jp/home.html
川上澄生展も開催中
6/7まで
http://www2.sogo-gogo.com/common/museum/archives/09/0509_kawakami/index.html
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