同時期に開催していたキトラ古墳展も見てみたかったのだが、
入場まで100分待ち、作品まで30分待ちで断念。
建仁寺のほうは風神雷神図があるのにも関わらず、混み具合は普通だった。
栄西の書などが半分ほど占めているので地味なのか?
宗達ファンの私には嬉しいが、古墳に負けてちょっと複雑。
この展覧会の白眉は海北友松の作品だった。
海北友松はさまざまな作品があるがここで展示されていたのは
割に自由に描いている時代の作品と勝手に想像する。
私は龍より山水図や竹林七賢図のほうが良かった。
山水図はほとんど具象の面影を残さず。
何でしょう、このセンスの良さと墨の濃淡の美しさは!
後日再びキトラ古墳展にチャレンジしたがやはり断念。
常設展の光琳風神雷神図を見てキトラのカタログだけ買って帰る。
高松塚古墳ファンの私は、壁画が酷似していたので混同していたが
キトラ古墳は2年後にオープンするとのこと。
ならば後日直接奈良に見に行くことにする。
開山・栄西禅師 800年遠忌 特別展「栄西と建仁寺」
東京国立博物館 平成館 特別展示室
2014年3月25日(火) ~ 2014年5月18日(日)
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1632#top
明日で終わりの展覧会。
知人の評判が良いので駆け込みで行ってきた。
行ってみたらなんと今日は「国際博物館の日」(なんのことかよくわからない)につき入場無料。ラッキー!
絵画というのは物質なのである。
何が描かれているかということ以前に、その物質性と身体性を感じることが
見る快楽につながるのだなあと実感。
あまりにも多作で大作が多くでびっくり。
好みとしては90年代から00年代辺りか。
中村一美展
国立新美術館
2014年3月19日(水)~5月19日(月)
http://www.nact.jp/exhibition_special/2013/NAKAMURA_Kazumi/index.html
ジェンダー・表象・文化の政治学
トリン・T・ミンハ
小林富久子訳
1996年みすず書房
p164-165
今日必要と思われるのは、観客の一人一人がもつユニークで(なおかつ)社会的な自己に訴えかけ、そうした自己の意義をそれぞれの個人的経験や背景に応じて知覚させ、その過程でどの観客も政治的に条件づけられており、かつ、他の多くの社会的な自己と結びついてもいるということを感じさせる作品である。
(中略)
人が作品から、あるいは、作品に向かうことから、感じとる社会的挑戦を受けとめるには、映画のテクストを成り立たせているできごとを読み、かつ読みなおすことで、自身が意味の創出に参加する積極的な観客としての役割の担い手であるとの自覚をもつ必要がある。
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映画についての文章だが、映画にのみあてはまるものではない。
コンタクトホーフはまさにこの条件にあてはまり、観客とともに成立する作品であったことよ、と思いながら読んだ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140419-00000014-jij_afp-int
記録し忘れるところだった。
貴重な作家を失った。
大変な影響力を持った作品を書いたと思う。百年の孤独は永久保存版。
しかし先日読んだ「わが悲しき娼婦たちの思い出」は
川端の「眠れる美女」とは違いロマンチックでほほえましくすらあった。
晩年メキシコに住んでいたとは。
2009年に彼女が亡くなってから初めて見るヴッパタール舞踊団の舞台である。
09年以降に見たものといえばヴェンダースのドキュメンタリー「踊り続けるいのち」だが
3Dが見辛かったことくらいしか記憶に残っていない。
「コンタクト・ホーフ」は以前来日した時も持ってきた作品のようだが初めて見る作品。
初日のせいか、補助席も沢山出ており、生前の舞台に比べ大盛況で驚いた。
上演時間は休憩も含め3時間と長かったが長さは特に感じなかった。
大きな盛り上がりはなく、淡々とシークエンスが繋がっていく。
しかし
(あの鴨の映像を流すシーンはどんな意味だったのだろう?とか)
(出演者が同時にそれぞれの母国語で自分の恋愛体験について話す音声がとても心地よかったこととか)
気になったシーンはいくつもある。
以前どこかでバウシュについて読んだ本にも出ていたと思うが(題名失念)
この作品に於いてはそれらのシークエンスが最後に辿り着くシーンが衝撃的で、
男性達の愛撫に耐え切れず女性が崩れ落ち、さらに新しい女性が現れることにより、
飽きられた玩具のように女性が置き去りにされるシーンは、
これが動物としての人間の正体だと思わざるを得ない。
恐らくそれぞれの鑑賞者が実感として感じるはずだ。
さらに、そのようなスケープゴートが生物としての弱さからくるのではなく
社会的に創り出してしまう人間の正体を見たというべきか。
ただ、この作品からというよりピナ・バウシュの作品の中には
そんな人間に対しても多角的な見方や愛情表現も示されるのだが。
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